こんにちは。私が普段教えることをしていて感じることを綴ります。
世の中の教育を見ていると「教える」ことで終わっている方々が多いです。ただ単に、教えることで終わってしまっている方が多いように感じます。
今回は、そんな視点で、感じることを、率直に言いたいと思います。
目次
数学のセンスを伝える
私の中の学問は、数学と数理科学と人文科学(など)、そして数学教育と授業(学校 教育)と教育学(など)から成り立っています。
普段から「教える」ことを日課としています。
学校の教員、塾の先生、その他の指導者の方々の一つの評価は、
「教えること・教え方が上手」
ということだと思います。
でも、「教えることが上手だ」っていうのは通過点であって、その先は広い、という認識を持っています。。。
私は、数学の教員をしています。数学の先生にとって、
数学のセンスを伝えること
がとても大切だと、最近感じるようになりました。最近、気が付きました。
数学を教える
最近というのでしょうか、前から思っていたのですが、世の中の多くの「数学を教えることが上手な人」には、そこで終わってしまっている人が多いと思います。
数学を教えることが上手な人は、たしかに重宝されます。しかし、そこで満足して終わっている人が多くいらっしゃいます。
その先に何があるかは、私にも全ては分かりません。
でも、 "その先" にあるものこそが本当の数学教育なのだと思っています。つまり、自分の教えたいことを自由に伝えることができるようになって初めて、伝えたいことを教えることこそが、
「先生として」の「本当の教育」
と言えるものの始まりだと思います。
少し難しい表現かもしれませんが、何に数学を使おうと思っていても、もしくは、どんな意味がある数学であっても、先生としての本当の教育は、そこから始まります。
私は、
教えたいことがあって、初めて授業ができる
と思っています。
数学を教える先へ
「教える」ことの先について、とりあえず思いついた「先」を挙げます。
次のようなことを「「先」の「例」」として思いつくことができました。
数学の勉強の仕方を教える
- 数学の勉強方法も伝えてあげる
- いま躓いている部分を伝えてあげる
- 基礎を行って、基本で定着を行なってあげる
- 網羅的に行なってあげる
- 実践的に行なってあげる
数学の気持ちを教える
- 勉強するモチベーションや目的を一緒に決めてあげる
- 段取りを整えてあげる
- 習慣が付くまで一緒にやってあげる
数学自体を教える
- その数学の応用先を伝えてあげる
- その数学の背景や概念、歴史を伝えてあげる
- 適切な例や、成り立たない例を教えてあげる
- 意味のある問題を教えてあげる
- 類題を作って教えてあげる
- 面白い問題を教えてあげる
- 数学を養える環境を整えてあげる
数学という学問や科学技術を教える
- 思考や論理の順番を整えてあげる
- 「〜とは何か」という問いに向き合ってあげる
- 「なんで」っていう疑問を大切にしてあげる
- 日常の中で大切なことを見出してあげる
数学で大人を教える
この項目は、大人が子ども/若者に教えるときの話です。
- 大人の背中、勉強する姿勢を見せてあげる
- 相手のために(大人の)時間をつかってあげる、待ってあげる
他にも、たくさんありますね。とりあえず、箇条書きで挙げました。
上で挙げた項目については、もちろん数学を教えることが上手な人に該当する項目も多数だと思います。
しかし、
(これらの項目が全てできる)= (数学を教えることが上手)
という訳でもなさそうです。何かが足りない、気がしています。
数学のセンスを伝える
センス。足りないものの1つには「Sense」が挙げられると思います。
「数学はセンス」だ、ということを学校現場では、よく聴きます。どちらかというと、「子ども本来の感覚」のように捉えられていて、教員の指導ができない部分と捉えられているように感じます。
しかし、この「センス」を養ってあげることが本来の数学教育の一つの形なのではないかと思います。
私は、この言葉が持つ意味を全て明確に把握できた気は未だしていません。
しかし、「数学は意味のない学問」と表現を行った場合の「意味」の部分である、ということが一つの解答となると思っています。これは、イデアとかの話であります。
センスという言葉で表現して良いのか分かりませんが、数学者の岡潔先生は次のように述べられました。
数学の教育で最も大切なことは「情緒」である。
岡 潔
私は、この情緒の意味を、まだよく理解できていません。この情緒と、私の考えている(広い意味での)センスが同じ意味だとも思いません。
また、現指導要領の言う、「数学の見方や考え方」と同義でもないと思っています。もっと広い世界、広い見方が、そこにあると思っています。
また、数学は、演繹的(論理的)な羅列だけで終わるような学問(ヒルベルトが唱えたような。)ではないと思います。数学という広い世界があって、その中の一角が「意味のない数学」だと考えています。
私は、「純粋数学こそが数学だ」といっている数学者も、「数学は道具だ」と言っている物理学者や工学者も、
数学という広い世界の氷山の一角しか見ていない
と思ってしまいます。
私は、次のように思います。数学を教えることで最も大切なことの一つには
「センスを磨いてあげる、養ってあげる」
ことが挙げられる。
もっと適切な言い換えをすると
「センスを見せてあげる」
ことが大切だと思っています。この表現は「学ばせてあげる」と言っても「真似させてあげる」と言っても良いと思います。
そういう懐の大きな数学の先生って、どれだけ居るんでしょうか?
自分は、どれだけできているのでしょうか?
学校で、子ども達は、6年間や12年間も数学に触れている。例えていうと、日本の英語教育を習得しても Speaking ができるようになる生徒がほとんどいないように、数学教育を習得しても数学の本流を知る生徒は、ほとんど居ないと思います。
誤解の無いように言っておくと「数学を極める」という意味ではありません。例えば、"水泳ができる" と言ったら、一人前に泳げる・溺れずに済む、ということです。オリンピックに出るレベルまで極める、という意味にはならないと思います。
受験のための数学も一概に悪いものとは言えません。
ただ、本当に「数学が身になっている」のだろうか、という疑問は常に抱いています。そんな生徒は一部だと思います。
何かを学んで習得した、その先で出来ることは、
「自分で思慮分別して判断できること」
だと思います。あなたは、数学を自分で思慮判断できますか。
センスを磨くことについて「技法的なセンス」に留まっていないでしょうか。
数学を教育する立場の方であれば『語り継ぐこと』をもっと意識するべきだと思います。
もし良ければ、そう言ったことを一緒に学んでいくことができる人がいれば嬉しいです。
数学の先生のブログのさいごに
私は、科学者で数学の先生です。「教える」ときには「センス」が大切なのではないかと、お話しさせていただきました。
こんな、言葉を創ってみました。
Science Sensei Sense
面白いですね。
こう言った見方も発信して、みなさんのご意見を伺うことができれば、嬉しく思います。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!